なんか最後の更新から相当期間が空いてしまいました、Tiです、こんにちわ。覚えていますか?(笑)
忙しかった、といえば言い訳になるのですが、実質少々行き詰まっていて、悩み事も多く少々『考える時間』をもうけてみました。最初は考えても休んでも進歩は無いかな?とおもったのですが、思いのほか祝福があり、いろいろな面で新しい前進を迎える事ができました。これもおそらく自力ではないと思うんだよなぁ、自分でできる事にはいつも限界があり、それを超える事は時に『不可能』になる。『こーーんなこったできるかい!』ってね。もう『できないもどかしさ』と『できない自分への失望』のなかで悶々としているときに主が背中をそっと突っついてくれる。そうすると思いがけない機会がまわってきたりする。・・・と、ちょっとしたTestimonyでした(笑)
今日はHosannaの日ですね、いろいろな礼拝でHosannaにまつわる歌を歌ったと思います。ちなみに念のために走り書きをするとHosannaとは『救いたまえ』の意味でダビデ等が祈りで用いました。イエスがエルサレムに入った死の6日前(金曜日の6日前なので日曜日です。今週の金曜日がGood Fridayなので今年のその日は今日に当たります)エルサレムの人びとは『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』といって迎え入れます。その日に迎え入れた人びとがしゅろの木の枝をふっていたことからその日(今日)が『しゅろの日曜日』とよばれるようになりました。
僕が普段歌っているところでも今日聖歌隊はしゅろの枝を持ち子供たちと一緒に『Blessed is He who comes in the name of the Load♪』と歌いました。いままで紫だったマフラーも赤にかえ、爽やかな歌でこの日を迎える事ができたのが嬉しかったです。
今週はクリスチャンにとって忙しい日々になると思います。一年のうちで最も忙しい週かな?木曜日、金曜日、日曜日とイベントがかさなる教会も恐らく多いでしょう。クリスチャンの方は無理をしないように、そして興味のある方は是非教会の門を叩いてみてください。タダで食事ができるかもしれませんよ(シーッ)。
それでは皆さんに祝福に満ちた週がある事を心より祈って。
忙しかった、といえば言い訳になるのですが、実質少々行き詰まっていて、悩み事も多く少々『考える時間』をもうけてみました。最初は考えても休んでも進歩は無いかな?とおもったのですが、思いのほか祝福があり、いろいろな面で新しい前進を迎える事ができました。これもおそらく自力ではないと思うんだよなぁ、自分でできる事にはいつも限界があり、それを超える事は時に『不可能』になる。『こーーんなこったできるかい!』ってね。もう『できないもどかしさ』と『できない自分への失望』のなかで悶々としているときに主が背中をそっと突っついてくれる。そうすると思いがけない機会がまわってきたりする。・・・と、ちょっとしたTestimonyでした(笑)
今日はHosannaの日ですね、いろいろな礼拝でHosannaにまつわる歌を歌ったと思います。ちなみに念のために走り書きをするとHosannaとは『救いたまえ』の意味でダビデ等が祈りで用いました。イエスがエルサレムに入った死の6日前(金曜日の6日前なので日曜日です。今週の金曜日がGood Fridayなので今年のその日は今日に当たります)エルサレムの人びとは『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』といって迎え入れます。その日に迎え入れた人びとがしゅろの木の枝をふっていたことからその日(今日)が『しゅろの日曜日』とよばれるようになりました。
僕が普段歌っているところでも今日聖歌隊はしゅろの枝を持ち子供たちと一緒に『Blessed is He who comes in the name of the Load♪』と歌いました。いままで紫だったマフラーも赤にかえ、爽やかな歌でこの日を迎える事ができたのが嬉しかったです。
今週はクリスチャンにとって忙しい日々になると思います。一年のうちで最も忙しい週かな?木曜日、金曜日、日曜日とイベントがかさなる教会も恐らく多いでしょう。クリスチャンの方は無理をしないように、そして興味のある方は是非教会の門を叩いてみてください。タダで食事ができるかもしれませんよ(シーッ)。
それでは皆さんに祝福に満ちた週がある事を心より祈って。
2006.04.10 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(0) |
まだ風当たりは寒いですが、少しづつ春の『薫り』がする昨今、皆様お元気にしていますか?
今日は以前から書きたかった事、『聖書をどうやって勉強しよう』という中味について書いてみます。もう既に自分なりの方法を持っている人は変える必要はありません。賛否はあっても方法論に『絶対』はないとおもってます。
ただ『これから聖書を読んでみようかな?』という人が参考にしてくれると光栄です。
聖書って本当にいろんな勉強方法があります。ビギナー向けの書籍やクリスチャン雑誌を使う人もいれば、注解書などを参考にして読んでいく人もいるでしょう。年配のクリスチャンに教えを乞い、深い洞察と経験に基づいた指南を受ける人もいれば、若き研究意欲に燃える牧師から直接指導を受ける人もいるでしょう。日曜学校など集会で学ぶ人もいるかもしれません。それら全てが素晴らしい勉強法だと思うし、僕も上記の学習法のうちいくつかを実践しています。でも僕にここでもう3つ程勧めさせてください。
まずは『聖書読み下し』の読み方です。
『通読』に近いのですが『創世記から黙示録』ではなく結構いろいろなところをバラバラ読んでいく事です。僕自身の目標は『旧約2〜3章、福音書1〜2章、書簡(○○の手紙)1〜2章』を毎日のペースでやっていますが必ずしも僕の形で読む必要は無いです。最初は1章読むのも一苦労だと思うしね。
このときオススメなのはちっちゃくてもいいから『聖書事典』を横におく事です。フェデリコ=バルバロ訳や一部の学習聖書のように『注解付き聖書』なら問題は無いと思いますが、そうじゃないと説明が無いとよくわからない事があります。そういう時に事典は非常に助けになります。是非お近くの図書館から借りたり、友人のクリスチャンから借りてみてください。
ちなみにこの読み方で初めて聖書を読む人は最初に創世記の1〜11章とマルコの福音書をよむことをお勧めします。すこし全体像がわかるんじゃないかな?
次に『キーワード別聖書聖書内検索』です。
どういうことかというと、まず聖書の後ろの索引を開きます。そして調べたい語句を探してみましょう。(例、『赦し』等)そうするとそれに関する聖句が書いてある場所がでてきますね。あとはそれを一つづつ引いていくだけです。この読み方のいいところは聖書の『価値観』がわかるところです。一つの意見についてどのように書いてあるか、それを聖書内の様々な箇所から見ていく事で『あぁ、聖書はこの事についてこう考えているんだ』というのがわかります。あと読んでいる時に聖書に『問いかけている』という実感を持って読めるのも利点です。索引で物足りないと思う人は是非図書館等で『コンコルダンス』というのを借りてきてください。これは聖書の索引本で巻末索引より具体的に書いているので結構知識欲を満たしてくれます(笑)
そして最後に『聖書サーフィン』です。
これは実は引照がなければできないのですが、たまに一部の聖書は欄外に参考聖句が書いてある事があります。これを引照といいます。ようは聖書内の『リンク』です。だからそこを見ると関連聖句がバーーーっとでてくるんですよ。『聖書サーフィン』はお気に入りの聖句からこの『リンク』をたどって中をいろいろグルグルまわってみよう、というものです。この読み方のいいところはたまに思わぬ発見がある事です。『あ、この聖句これと関連があったのか〜〜!』とちょっとした発見が楽しめます(笑)
以上がぼくのオススメの読み方です。実はこれ、色々書いたけれど昔からおこなわれているベーシックな読み方です。でも初めて聖書読む時ってそのボリュームと『聖書!!』という先入観に圧倒されてなかなか手をつけられないんですよね。おそらくここをのぞいてくれる人の中にはそういう人もいるんじゃないかな?とおもいアップしてみました。
それではみなさんの一日が楽しいものとなるよう心から祈って。
今日は以前から書きたかった事、『聖書をどうやって勉強しよう』という中味について書いてみます。もう既に自分なりの方法を持っている人は変える必要はありません。賛否はあっても方法論に『絶対』はないとおもってます。
ただ『これから聖書を読んでみようかな?』という人が参考にしてくれると光栄です。
聖書って本当にいろんな勉強方法があります。ビギナー向けの書籍やクリスチャン雑誌を使う人もいれば、注解書などを参考にして読んでいく人もいるでしょう。年配のクリスチャンに教えを乞い、深い洞察と経験に基づいた指南を受ける人もいれば、若き研究意欲に燃える牧師から直接指導を受ける人もいるでしょう。日曜学校など集会で学ぶ人もいるかもしれません。それら全てが素晴らしい勉強法だと思うし、僕も上記の学習法のうちいくつかを実践しています。でも僕にここでもう3つ程勧めさせてください。
まずは『聖書読み下し』の読み方です。
『通読』に近いのですが『創世記から黙示録』ではなく結構いろいろなところをバラバラ読んでいく事です。僕自身の目標は『旧約2〜3章、福音書1〜2章、書簡(○○の手紙)1〜2章』を毎日のペースでやっていますが必ずしも僕の形で読む必要は無いです。最初は1章読むのも一苦労だと思うしね。
このときオススメなのはちっちゃくてもいいから『聖書事典』を横におく事です。フェデリコ=バルバロ訳や一部の学習聖書のように『注解付き聖書』なら問題は無いと思いますが、そうじゃないと説明が無いとよくわからない事があります。そういう時に事典は非常に助けになります。是非お近くの図書館から借りたり、友人のクリスチャンから借りてみてください。
ちなみにこの読み方で初めて聖書を読む人は最初に創世記の1〜11章とマルコの福音書をよむことをお勧めします。すこし全体像がわかるんじゃないかな?
次に『キーワード別聖書聖書内検索』です。
どういうことかというと、まず聖書の後ろの索引を開きます。そして調べたい語句を探してみましょう。(例、『赦し』等)そうするとそれに関する聖句が書いてある場所がでてきますね。あとはそれを一つづつ引いていくだけです。この読み方のいいところは聖書の『価値観』がわかるところです。一つの意見についてどのように書いてあるか、それを聖書内の様々な箇所から見ていく事で『あぁ、聖書はこの事についてこう考えているんだ』というのがわかります。あと読んでいる時に聖書に『問いかけている』という実感を持って読めるのも利点です。索引で物足りないと思う人は是非図書館等で『コンコルダンス』というのを借りてきてください。これは聖書の索引本で巻末索引より具体的に書いているので結構知識欲を満たしてくれます(笑)
そして最後に『聖書サーフィン』です。
これは実は引照がなければできないのですが、たまに一部の聖書は欄外に参考聖句が書いてある事があります。これを引照といいます。ようは聖書内の『リンク』です。だからそこを見ると関連聖句がバーーーっとでてくるんですよ。『聖書サーフィン』はお気に入りの聖句からこの『リンク』をたどって中をいろいろグルグルまわってみよう、というものです。この読み方のいいところはたまに思わぬ発見がある事です。『あ、この聖句これと関連があったのか〜〜!』とちょっとした発見が楽しめます(笑)
以上がぼくのオススメの読み方です。実はこれ、色々書いたけれど昔からおこなわれているベーシックな読み方です。でも初めて聖書読む時ってそのボリュームと『聖書!!』という先入観に圧倒されてなかなか手をつけられないんですよね。おそらくここをのぞいてくれる人の中にはそういう人もいるんじゃないかな?とおもいアップしてみました。
それではみなさんの一日が楽しいものとなるよう心から祈って。
2006.02.24 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(4) |
部屋に工事でめをさましたネズミが移住し、想いもかけないルームメイトに戸惑いが隠せない昨今、みなさんお元気ですか?
序文でもかいたのですが、部屋にネズミがやってきました。学校のみんなは『ミッキー』と呼んでます☆・・・って想いっきり招かれざる客なのですが〜〜〜(食事が食べられた)
まぁぼくのプライベートな叫びはおいといて、今回初めてトラックバックというものをしてみます。うまくいけばいいなぁ。トラックバック先はnikkohさんの『眠られぬ夜のために』です、ヨブ記に関してとても面白いコメントがあったのと、前々から話したい事だったので『ちょうどよかった』とおもいかいてみました。
それで、今日一緒に考える事はね、資本主義と神の視点、というところです。
資本主義ってなにかわかります?なんて聞いたら『フザけてんのか!』と怒られそうですが、一応簡単に説明させてください。資本主義というのは一言でいうなら『働きに応じて報酬がもらえる』という制度です。がんばりゃ出世するし、働けば働いた分だけ報酬がもらえるというもの。まぁ裏を返せば『翼あるものは飛べ、無きものは地を這え』という考えがあるのですが、まぁ『努力に応じて』という点においては公平と言えるでしょう。
さて、それでは神様の視点とはどういうものなんでしょうか?すごく長くなりますが、時間とか気持ちに余裕があるのなら一緒に考えてみましょう。マタイ20章を始めから16節まで読んでみましょう。
序文でもかいたのですが、部屋にネズミがやってきました。学校のみんなは『ミッキー』と呼んでます☆・・・って想いっきり招かれざる客なのですが〜〜〜(食事が食べられた)
まぁぼくのプライベートな叫びはおいといて、今回初めてトラックバックというものをしてみます。うまくいけばいいなぁ。トラックバック先はnikkohさんの『眠られぬ夜のために』です、ヨブ記に関してとても面白いコメントがあったのと、前々から話したい事だったので『ちょうどよかった』とおもいかいてみました。
それで、今日一緒に考える事はね、資本主義と神の視点、というところです。
資本主義ってなにかわかります?なんて聞いたら『フザけてんのか!』と怒られそうですが、一応簡単に説明させてください。資本主義というのは一言でいうなら『働きに応じて報酬がもらえる』という制度です。がんばりゃ出世するし、働けば働いた分だけ報酬がもらえるというもの。まぁ裏を返せば『翼あるものは飛べ、無きものは地を這え』という考えがあるのですが、まぁ『努力に応じて』という点においては公平と言えるでしょう。
さて、それでは神様の視点とはどういうものなんでしょうか?すごく長くなりますが、時間とか気持ちに余裕があるのなら一緒に考えてみましょう。マタイ20章を始めから16節まで読んでみましょう。
2006.02.16 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(0) |
『ひさかたの あまのかぐやま このゆうべ 霞たなびく 春立つらしも』という万葉の句に想いを馳せる立春の候、皆様はお元気にしていますか?
今日久々に遠出したんですよ。最近ギチギチだったからとても嬉しかったんですけどね、そこでなんかおもしろうもんみつけたんです。
『Book Hug for Book lovers(本の恋人たちに本の抱擁)』
まぁようは机上譜面台みたいなもんで、単に本をたてて読めるというだけの代物なんですが、これを部屋に帰って早速開いてみて大判聖書を立てかけてみたんですね。
いいなぁ、これ・・・
こんな小さなアイテムの一つで読書をする気が湧いてくるから心って面白いもんですね(笑)
さてさて、今日はちょっとした単語から『神様ってどのくらい近い人なんだろう』というのを考えてみましょう。
まず皆さん、神様ってどんなイメージあります?『すんごく神聖』とか『手の届かない相手』、『怖い存在』かもしれないし『遠すぎてわからない対象』かもしれない。
じゃあ実際聖書に神様はどのようにかかれているのか?これはいろいろな角度から聖句を引用して考える事はできるとおもうんですよ。でも今日は単語一つからの解釈って言うのをしてみようと思います。
まずは神様の言い換えの言葉を探してみます。『主』だったり『全能者』、『至高者』、『創造者』などやったら『手が届かないな〜』と思わせる言葉が旧約聖書(イエスが来る前の時代)では使われています。それじゃあ、ユダヤ教時代からキリスト教時代に視点を変えてみましょう。新約聖書ではどう書かれているでしょうか?
で探してみるとやたら目につくのが『父』と『父なる神』。キリストの伝道以降、神との関係が一層密になったのがわかりますね。さて、ここからが本題。この『父』って単語を原語で考えたら本当に『父』なんでしょうか?
まず父ってヘブライ語でなんというんでしょうか?これって『アブ』っていうんです『アブラハム(訳:信仰の父)』や『モアブ(訳:父によって)』でつかわれている『アブ』です。
さてさてヘブライ語で父がアブだ!ということを頭に入れて次に進んでみましょう。それでは実際にイエスやその弟子たちは神を『アブ』と呼んでいたのでしょうか?イエスの言葉である福音書の中からマルコ14:36を、教えを広めるものであり、当時のクリスチャンの伝道リーダーでもあったパウロが記した記述、ローマ8:15、ガラテア4:6から考えてみましょう。
『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。』(マルコ14:36)
『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。』(ローマ 8:15)
『このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。』(ガラテア 4:6)
あれれ、どうやら彼らは『アブ』ではなく『アバ』って呼んでますね?(新共同訳では『アッバ』)この『アバ』って一体何者なのでしょうか?
この『アバ』って言うのは厳密には幼児語に近いんです。つまり『父』よりもむしろ『パパ』とか『とおちゃん』って感じなんです。つまりこの単語からわかるように、僕ら人間にとって神様は『子供にとってのパパ』なんですね、こういう視点から見ても神様は『愛』と『赦し』の方である、というのがわかりますね、僕ら子供っすから(笑)
それじゃあ皆さんに祝福が満ちた一日がある事を心より祈って。
今日久々に遠出したんですよ。最近ギチギチだったからとても嬉しかったんですけどね、そこでなんかおもしろうもんみつけたんです。
『Book Hug for Book lovers(本の恋人たちに本の抱擁)』
まぁようは机上譜面台みたいなもんで、単に本をたてて読めるというだけの代物なんですが、これを部屋に帰って早速開いてみて大判聖書を立てかけてみたんですね。
いいなぁ、これ・・・
こんな小さなアイテムの一つで読書をする気が湧いてくるから心って面白いもんですね(笑)
さてさて、今日はちょっとした単語から『神様ってどのくらい近い人なんだろう』というのを考えてみましょう。
まず皆さん、神様ってどんなイメージあります?『すんごく神聖』とか『手の届かない相手』、『怖い存在』かもしれないし『遠すぎてわからない対象』かもしれない。
じゃあ実際聖書に神様はどのようにかかれているのか?これはいろいろな角度から聖句を引用して考える事はできるとおもうんですよ。でも今日は単語一つからの解釈って言うのをしてみようと思います。
まずは神様の言い換えの言葉を探してみます。『主』だったり『全能者』、『至高者』、『創造者』などやったら『手が届かないな〜』と思わせる言葉が旧約聖書(イエスが来る前の時代)では使われています。それじゃあ、ユダヤ教時代からキリスト教時代に視点を変えてみましょう。新約聖書ではどう書かれているでしょうか?
で探してみるとやたら目につくのが『父』と『父なる神』。キリストの伝道以降、神との関係が一層密になったのがわかりますね。さて、ここからが本題。この『父』って単語を原語で考えたら本当に『父』なんでしょうか?
まず父ってヘブライ語でなんというんでしょうか?これって『アブ』っていうんです『アブラハム(訳:信仰の父)』や『モアブ(訳:父によって)』でつかわれている『アブ』です。
さてさてヘブライ語で父がアブだ!ということを頭に入れて次に進んでみましょう。それでは実際にイエスやその弟子たちは神を『アブ』と呼んでいたのでしょうか?イエスの言葉である福音書の中からマルコ14:36を、教えを広めるものであり、当時のクリスチャンの伝道リーダーでもあったパウロが記した記述、ローマ8:15、ガラテア4:6から考えてみましょう。
『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。』(マルコ14:36)
『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。』(ローマ 8:15)
『このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。』(ガラテア 4:6)
あれれ、どうやら彼らは『アブ』ではなく『アバ』って呼んでますね?(新共同訳では『アッバ』)この『アバ』って一体何者なのでしょうか?
この『アバ』って言うのは厳密には幼児語に近いんです。つまり『父』よりもむしろ『パパ』とか『とおちゃん』って感じなんです。つまりこの単語からわかるように、僕ら人間にとって神様は『子供にとってのパパ』なんですね、こういう視点から見ても神様は『愛』と『赦し』の方である、というのがわかりますね、僕ら子供っすから(笑)
それじゃあ皆さんに祝福が満ちた一日がある事を心より祈って。
2006.02.05 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(1) |
少しづつ暖かくなる気配がする昨今、東海岸では学生が少しずつ春服に着替え始めました。清少納言の『少し春めく心地こそすれ』が肌身に感じられる時節、皆さんはお元気にしていますか?
さて、久しぶりの聖書との触れ合いです(笑)最近個人日記みたいにばかりなっていたので、そろそろかなぁと思いアップします。一緒に考える事におつきあいお願いしますm(__)m
今日考えてみたい事はあのハンムラビ法典の復讐法というものです。目には目を、歯には歯を〜って中学校の歴史の時間で睡魔と戦いながら覚えたアレです。実はこれ聖書にも同じ記述があるのです。そんでね、戦争賛成者とかアンチクリスチャン等に非常に良く引用されてきたので、イラク戦争の件もあるしそろそろかんがえてみようかな?と思ってます。使う聖句は前と重なるところもあるけれど是非可能ならお手元に聖書を置いて(もしくは僕のリンク先のサイトからもしらべられます)一緒に考えてみましょう。主に3つの視点にわけて触れていこうと思ってます。
(1)旧約聖書の復讐法の意味
(2)イエスは復讐法にどんなコメントをしただろうか
(3)クリスチャンはどのように復讐するのだろう?
この3つです。長くなるかもなぁ〜。必要ならば聖書の横にチョコとコーヒーを添えても良いかもしれません(僕の机の上です)(笑)
さて旧約聖書内で復讐法は書かれています。『目には目を』など同じ形で言葉を繰り返すのでマニアックな人たちには同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれています。最初にそれが明記されるのは出エジブト記の21章24〜25節です。そして同じような表記が申命記の19章21節にもでています。この両方を開いてみましょう。
『目には目。歯には歯。手には手。足には足。 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。(出エジプト 21:24~25)』
『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記 19:21)』
確かに書いてあります。それじゃあ何故これは書かれたのでしょうか?もうすこしツッコムなら何故これが書かれる必要があったのでしょうか?一緒に考えてみましょう。
当時、いまから3500年以上も前ですが、そのころ公的裁判の法律は完備していたとは言えませんでした。人は心の奥底にある憎しみのせいで「仕返し」をするときは受けた時の何倍にもして返しました。かたほほ殴られたらリンチみたいにね。それ禁止して『罪を犯したものは相当量の罪科を受ける、しかしそれは罪相当のものの範囲内である』と定めたのがこの同態復讐法です。つまり過剰の報復を禁止するためのもので、しかもそれは個人的な対人関係で行うのではなく法の公的執行で行われるものでした。
しかしこれを対人関係に当てはめて、『殴られたら殴り返せ!』みたいに早とちりしちゃった人たちが思いのほかたんまりでてきたんですよ。あ〜あ、これじゃあ人は傷つけあうのをやめないし、神の名の下で行われるからなおさらタチが悪い。そこでイエスはこの誤解を解くためにあの有名なセリフを言うのです。マタイによる福音書5章38節から42節を読んでみましょう。
『「目には目で、歯には歯で。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(マタイの福音書 5:38~42)』
イエスは申命記の聖句をきちんと引用して解説しています。復讐法の誤解はここでとかれるんですね。つまり僕らに勧められているのは報復ではなく与える事なんです。そしてこれはこのように結論づけられます同書の44節に目を移してみましょう。
『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ 5:44)』
個人の対人関係で大切な事は相手の非を責める事でも、仕返しする事でもなく、むしろ『赦し、与える』こと、これがクリスチャンなのですね。勿論このようにする事は大変ですけどね(笑)
さて、(3)にクリスチャンの復讐とタイトルを付けたのですが、なんのことでしょう??ちょっと長いですがローマ人への手紙12章14節から21節まで目を通してみましょう。
『あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:14〜21)』
つまりクリスチャンの復讐(打ち勝ちかた)は自分に不快な想いをさせた人に自分ができるだけいい事をする、ということなんですね。勿論これもすごく難しいけどね(笑)
そうすると自分に不快な事をした人の頭に炭を置くとあるけど、これは一体どういう事なんでしょう?実は僕、以前この聖句の意味は『自分がいい事をする事によって相手の良心に訴える』というものだと思っていたんです。そしてその事をある人にいったんです。そしたらその人はこういう風に説明してくれたんです。
『この燃える炭火は当時、炉で金属を溶かし別のものを作るのによく使われていました。だからこの聖句の意味は相手の頭にある『怒り』を溶かしてその人の良いところを引き出すって意味なんですよ』
なるほど、皆怒りや憎しみを静めたらたしかにそれぞれの賜物が光る、と妙に納得して聞いてしまいました(笑)
だから本来クリスチャンは戦争を戦争で返すのではなく、できる限りの平和とできる限りの善意をもって返す事、自分から戦い始めるのではなくて、相手が怒りを静めてそのキラっとひかる何かを見せてくれるまで彼/彼女に対して善意を行うようにする事が大切なのですね。勿論、ムズかしいけどね(笑)
さてさて、長い文、お疲れさま。読んでくれてありがとう!
それでは皆さんに幸多き一日が訪れる事を心より祈って。
さて、久しぶりの聖書との触れ合いです(笑)最近個人日記みたいにばかりなっていたので、そろそろかなぁと思いアップします。一緒に考える事におつきあいお願いしますm(__)m
今日考えてみたい事はあのハンムラビ法典の復讐法というものです。目には目を、歯には歯を〜って中学校の歴史の時間で睡魔と戦いながら覚えたアレです。実はこれ聖書にも同じ記述があるのです。そんでね、戦争賛成者とかアンチクリスチャン等に非常に良く引用されてきたので、イラク戦争の件もあるしそろそろかんがえてみようかな?と思ってます。使う聖句は前と重なるところもあるけれど是非可能ならお手元に聖書を置いて(もしくは僕のリンク先のサイトからもしらべられます)一緒に考えてみましょう。主に3つの視点にわけて触れていこうと思ってます。
(1)旧約聖書の復讐法の意味
(2)イエスは復讐法にどんなコメントをしただろうか
(3)クリスチャンはどのように復讐するのだろう?
この3つです。長くなるかもなぁ〜。必要ならば聖書の横にチョコとコーヒーを添えても良いかもしれません(僕の机の上です)(笑)
さて旧約聖書内で復讐法は書かれています。『目には目を』など同じ形で言葉を繰り返すのでマニアックな人たちには同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれています。最初にそれが明記されるのは出エジブト記の21章24〜25節です。そして同じような表記が申命記の19章21節にもでています。この両方を開いてみましょう。
『目には目。歯には歯。手には手。足には足。 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。(出エジプト 21:24~25)』
『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記 19:21)』
確かに書いてあります。それじゃあ何故これは書かれたのでしょうか?もうすこしツッコムなら何故これが書かれる必要があったのでしょうか?一緒に考えてみましょう。
当時、いまから3500年以上も前ですが、そのころ公的裁判の法律は完備していたとは言えませんでした。人は心の奥底にある憎しみのせいで「仕返し」をするときは受けた時の何倍にもして返しました。かたほほ殴られたらリンチみたいにね。それ禁止して『罪を犯したものは相当量の罪科を受ける、しかしそれは罪相当のものの範囲内である』と定めたのがこの同態復讐法です。つまり過剰の報復を禁止するためのもので、しかもそれは個人的な対人関係で行うのではなく法の公的執行で行われるものでした。
しかしこれを対人関係に当てはめて、『殴られたら殴り返せ!』みたいに早とちりしちゃった人たちが思いのほかたんまりでてきたんですよ。あ〜あ、これじゃあ人は傷つけあうのをやめないし、神の名の下で行われるからなおさらタチが悪い。そこでイエスはこの誤解を解くためにあの有名なセリフを言うのです。マタイによる福音書5章38節から42節を読んでみましょう。
『「目には目で、歯には歯で。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(マタイの福音書 5:38~42)』
イエスは申命記の聖句をきちんと引用して解説しています。復讐法の誤解はここでとかれるんですね。つまり僕らに勧められているのは報復ではなく与える事なんです。そしてこれはこのように結論づけられます同書の44節に目を移してみましょう。
『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ 5:44)』
個人の対人関係で大切な事は相手の非を責める事でも、仕返しする事でもなく、むしろ『赦し、与える』こと、これがクリスチャンなのですね。勿論このようにする事は大変ですけどね(笑)
さて、(3)にクリスチャンの復讐とタイトルを付けたのですが、なんのことでしょう??ちょっと長いですがローマ人への手紙12章14節から21節まで目を通してみましょう。
『あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:14〜21)』
つまりクリスチャンの復讐(打ち勝ちかた)は自分に不快な想いをさせた人に自分ができるだけいい事をする、ということなんですね。勿論これもすごく難しいけどね(笑)
そうすると自分に不快な事をした人の頭に炭を置くとあるけど、これは一体どういう事なんでしょう?実は僕、以前この聖句の意味は『自分がいい事をする事によって相手の良心に訴える』というものだと思っていたんです。そしてその事をある人にいったんです。そしたらその人はこういう風に説明してくれたんです。
『この燃える炭火は当時、炉で金属を溶かし別のものを作るのによく使われていました。だからこの聖句の意味は相手の頭にある『怒り』を溶かしてその人の良いところを引き出すって意味なんですよ』
なるほど、皆怒りや憎しみを静めたらたしかにそれぞれの賜物が光る、と妙に納得して聞いてしまいました(笑)
だから本来クリスチャンは戦争を戦争で返すのではなく、できる限りの平和とできる限りの善意をもって返す事、自分から戦い始めるのではなくて、相手が怒りを静めてそのキラっとひかる何かを見せてくれるまで彼/彼女に対して善意を行うようにする事が大切なのですね。勿論、ムズかしいけどね(笑)
さてさて、長い文、お疲れさま。読んでくれてありがとう!
それでは皆さんに幸多き一日が訪れる事を心より祈って。
2006.01.31 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(0) |

