少しづつ暖かくなる気配がする昨今、東海岸では学生が少しずつ春服に着替え始めました。清少納言の『少し春めく心地こそすれ』が肌身に感じられる時節、皆さんはお元気にしていますか?

さて、久しぶりの聖書との触れ合いです(笑)最近個人日記みたいにばかりなっていたので、そろそろかなぁと思いアップします。一緒に考える事におつきあいお願いしますm(__)m

今日考えてみたい事はあのハンムラビ法典の復讐法というものです。目には目を、歯には歯を〜って中学校の歴史の時間で睡魔と戦いながら覚えたアレです。実はこれ聖書にも同じ記述があるのです。そんでね、戦争賛成者とかアンチクリスチャン等に非常に良く引用されてきたので、イラク戦争の件もあるしそろそろかんがえてみようかな?と思ってます。使う聖句は前と重なるところもあるけれど是非可能ならお手元に聖書を置いて(もしくは僕のリンク先のサイトからもしらべられます)一緒に考えてみましょう。主に3つの視点にわけて触れていこうと思ってます。

(1)旧約聖書の復讐法の意味
(2)イエスは復讐法にどんなコメントをしただろうか
(3)クリスチャンはどのように復讐するのだろう?

この3つです。長くなるかもなぁ〜。必要ならば聖書の横にチョコとコーヒーを添えても良いかもしれません(僕の机の上です)(笑)

さて旧約聖書内で復讐法は書かれています。『目には目を』など同じ形で言葉を繰り返すのでマニアックな人たちには同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれています。最初にそれが明記されるのは出エジブト記の21章24〜25節です。そして同じような表記が申命記の19章21節にもでています。この両方を開いてみましょう。

『目には目。歯には歯。手には手。足には足。 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。(出エジプト 21:24~25)』

『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記 19:21)』

確かに書いてあります。それじゃあ何故これは書かれたのでしょうか?もうすこしツッコムなら何故これが書かれる必要があったのでしょうか?一緒に考えてみましょう。

当時、いまから3500年以上も前ですが、そのころ公的裁判の法律は完備していたとは言えませんでした。人は心の奥底にある憎しみのせいで「仕返し」をするときは受けた時の何倍にもして返しました。かたほほ殴られたらリンチみたいにね。それ禁止して『罪を犯したものは相当量の罪科を受ける、しかしそれは罪相当のものの範囲内である』と定めたのがこの同態復讐法です。つまり過剰の報復を禁止するためのもので、しかもそれは個人的な対人関係で行うのではなく法の公的執行で行われるものでした。

しかしこれを対人関係に当てはめて、『殴られたら殴り返せ!』みたいに早とちりしちゃった人たちが思いのほかたんまりでてきたんですよ。あ〜あ、これじゃあ人は傷つけあうのをやめないし、神の名の下で行われるからなおさらタチが悪い。そこでイエスはこの誤解を解くためにあの有名なセリフを言うのです。マタイによる福音書5章38節から42節を読んでみましょう。

『「目には目で、歯には歯で。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(マタイの福音書 5:38~42)』

イエスは申命記の聖句をきちんと引用して解説しています。復讐法の誤解はここでとかれるんですね。つまり僕らに勧められているのは報復ではなく与える事なんです。そしてこれはこのように結論づけられます同書の44節に目を移してみましょう。

『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ 5:44)』

個人の対人関係で大切な事は相手の非を責める事でも、仕返しする事でもなく、むしろ『赦し、与える』こと、これがクリスチャンなのですね。勿論このようにする事は大変ですけどね(笑)

さて、(3)にクリスチャンの復讐とタイトルを付けたのですが、なんのことでしょう??ちょっと長いですがローマ人への手紙12章14節から21節まで目を通してみましょう。

『あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:14〜21)』

つまりクリスチャンの復讐(打ち勝ちかた)は自分に不快な想いをさせた人に自分ができるだけいい事をする、ということなんですね。勿論これもすごく難しいけどね(笑)

そうすると自分に不快な事をした人の頭に炭を置くとあるけど、これは一体どういう事なんでしょう?実は僕、以前この聖句の意味は『自分がいい事をする事によって相手の良心に訴える』というものだと思っていたんです。そしてその事をある人にいったんです。そしたらその人はこういう風に説明してくれたんです。

『この燃える炭火は当時、炉で金属を溶かし別のものを作るのによく使われていました。だからこの聖句の意味は相手の頭にある『怒り』を溶かしてその人の良いところを引き出すって意味なんですよ』

なるほど、皆怒りや憎しみを静めたらたしかにそれぞれの賜物が光る、と妙に納得して聞いてしまいました(笑)

だから本来クリスチャンは戦争を戦争で返すのではなく、できる限りの平和とできる限りの善意をもって返す事、自分から戦い始めるのではなくて、相手が怒りを静めてそのキラっとひかる何かを見せてくれるまで彼/彼女に対して善意を行うようにする事が大切なのですね。勿論、ムズかしいけどね(笑)

さてさて、長い文、お疲れさま。読んでくれてありがとう!

それでは皆さんに幸多き一日が訪れる事を心より祈って。

2006.01.31 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(0) |

朝ベッドのぬくもりが恋しい昨今、みなさんは風邪等ひいていませんか?

今日でモーツァルト生誕250年ということで巷ではクラシック熱が上昇しているみたいですね。アメリカでは学部の中でも結構モーツァルトが流行っており、僕が所属する吹奏楽でもモーツァルトを演奏します。

最近ではモーツァルト効果(Mozart Effects)とかいうのもあるらしく、モーツァルトの曲がどれだけリラクゼーションに役立つか、等研究をしているみたいですね。

バッハ程複雑なわけではないし、ベートーベン程感情的でもない。そのなのに彼の曲には本当に精錬された美があると思います。ーひたすら流れていくーそんな感じが見受けられる古典派の巨匠は未だに皆に愛される音の魔術師なのですね。音楽家として死後にこのような評価を受けるのは最大の幸福だと思います。

さてさて、モーツァルトの話はここまでにして、実はもう一つここで話したい事があるんですね。

今日、うちの学校で留学生のミーティングがあったんですよ。これって実は今までなかったので、うちの大学にこんだけ留学生がいたとは知りませんでした。イギリスや中国、日本やラトビア、はてはイエスの故郷ベツレヘムまで。いろんな人がいるな〜って。そしてみんながアメリカにどういうイメージを持っているかと問いかけた時、本当に多種多様だな〜ってね。かなりいい経験をさせてもらいました。こういう国の人たちとの交流って本当に宝ですね。

そしてね、ある友達の事思い出したんですよ。

彼は黒人で、僕の親友です。彼はキリスト教だいっ嫌いだった僕をキリスト教徒にした男です(笑)いっつもキリスト教の話をする時に反対の意見を言うと悲しそうな顔をし、『今日聖書読んだよ』といえば喜ぶ純粋な奴でした。クリスチャンになるのに宗派は壁になるべきではない、と教えてくれたのも彼です。たとえ死に直面する一秒前でも神を心より信じたのなら、その人は祝福された死を迎えると教えてくれたのも彼です。

成績も良く、人気者。すんごく柔らかい性格の持ち主です。

そんな彼がね、ある日僕に話してくれたんですよ。彼がどうしてここに来たか、って。

リベリアでは内戦が起きたとき彼は14歳でした。父親は戦争に関与しなければいけなくて、アメリカに亡命するために母親と離婚。アメリカ大使館に乗り込みお願いする形で彼と彼の母親と二人の妹とひとりの弟はなんとかアメリカに亡命したのですが、吹くのスペアもなくシューズも穴あきが一足あるだけ。その後紆余曲折を経てかれは今に至るのですが、彼はその頃を思い出しこういいます。

『僕は主に祝福されていた。だからいま、あの頃に比べたらこんなにも信じられないくらいに良い生活をしている。食べるものもある。着るものもある。神様は本当に備えてくれたんだよ』

何となくジーンと心を打たれちゃって(笑)

今日のミーティングであったバルト3国のうちの一つ、ラトビアから来た彼や、未だに戦況収まらないイスラエルの近く、ベツレヘムから来た彼も恐らく苦境を経験したでしょう。そういう中でも生きていられる、というのは本当に祝福だと思います。

ぼくらも普段気づきにくい事なのですが、いい事があるにせよ悪い事があるにせよこのように命を与えられているという事は祝福されている事なのではないでしょうか?いい事がある時には更なる喜びのための機会が命によって与えられ、苦しい時にはそれを打開したりやり直すために命が与えられる。何気なく朝起きて夜に寝る生活ですが、よくよく考えたらこの命がある事だけでも幸せなのかもしれない。それだけでも祝福なのかもしれませんね。

『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。(イザヤ 41:10)』

気がつかないだけで、本当はいつも一緒にいるのかもしれません(笑)

それでは皆さんに素晴らしい日が訪れる事を祈って。

2006.01.28 | Days | トラックバック(0) | コメント(1) |

春と冬が交互する時節、みなさんはおげんきにしていますか?

最近Biblical memo(聖書を開くコーナー)が滞っていて、これじゃあアカンと思ってはいるのですがなかなか手をつけれないでいます。今学期は今までになく忙しくて、といったら言い訳なのかもしれませんが(笑)。まぁたまにはこういう時もあるのですがだからといって聖書を一緒に共有する気がなくなったという事は毛頭ありませんのでご心配なく(笑)

だからせめて好きな聖句一つでも共有できたらなぁ、と思ってます。これは少しづつね。せめて3日に一度を目標にして頑張りたいな、と思ってます。しかし、更新しない時はだいたい忙しいかナマケているので、そういう時には『コラ!働け!』とメールフォームから送ってください。頑張っちゃいますから(笑)

さてさて、お知らせなんですけどね。その前にちっと聞いてください。

僕は基本的にここは誰でも来てほしいし、来てくれた兄弟、姉妹(と呼ばせてください)のプライバシーを守りたいのでアクセス解析やIPのチェックとかはしません。このサイトは祝福されていて、荒らしさんとかが介入してこないしね。勿論、荒らしさんでも聖書に興味を持ってくれる方なら大歓迎なのですが(笑)

でもこれってマイナスもあって、リンクとかしてくれている人がわからないんですよ・・・

そんなある日、僕がよくいくクリスチャンのサイトにいったらなんとリンクされてたんです!!!

いや〜うれしかった。しかもお気に入りサイトのオーナーさんだったしね、もうハレルヤ!って感じです(謎)それでありがたいので、こんな弱小サイトですが、僕からもリンクさせてもらいます。サイト名は『眠られぬ夜のために』です。作者さんはおそらくスイスの法律学者であり思想家のカール=ヒルティ氏に心を寄せているのかな、と思います。

聖書に関しても、僕個人的にすごく学べる見解を持った方なので、本当におすすめです。ぜひ一度足を運んでみてくださいね。


でもその結果『こんないいサイトがあるならもうBiblical Spaceはいかなくてもいいや〜』なんては言わないでくださいね(切実)


それじゃ皆さんに祝福に満ちた時間が与えられる事を心から祈って。

2006.01.27 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |

東京では雪が降り積もったみたいですね。雪化粧も所変われば嫌悪の対象、物事とは難しいなと痛感する昨今、皆様はお元気ですか?

去年からここで書くと言ってできていない(アップしていない)ことがあるんですね。それは律法の説明。非常〜に考えた結果、原稿をもう一度書き直す事にしました。というのは、すごく細かいところなんですが、これって結構宗派、学派、教会によって変わるものなので、『宗派/学派を関係なく聖書を説明』というコンセプトから離れてしまうんですね。だから原稿を書き直します。

思慮不足はお前の頭が悪いからだ!とかいって責めないでくださいね。遅れているのは承知ですから(TへT)

あと、今年はいろいろな優しい聖句(個人的に癒された聖句)やいろいろな人の祈りも紹介していきたいと思ってます。聖書は人の心をどのように包んでくれるかという気持ちを共有できたらいいなと思ってます。

これは僕の気持ちですが、聖書は預言書や律法書、宗教書という枠組みをはるかに飛び越えて、その存在を信じるか否かは別として、神様からの恋文であり、励ましの書物であり、抱擁してくれる書物であるという感情を少しでも共有できたらいいなとおもってます。

それでは皆さんの残りの一日が祝福に満ちあふれるものである事を心より祈って。

2006.01.23 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |

寒さも佳境に入り、時に少しせっかちな風が少し春の香りを運んでくる昨今、皆さんはお元気にしていますか?

皆さんは祈りの人というとどのようなイメージがありますか?クリスチャンの方なら詩篇で熱烈に祈ったダビデや、真摯な愛を貫いたイエスを思い出しますか?仏教の人なら空海や百連かもしれませんし、歴史文学が好きな人なら蜻蛉日記の作者、藤原道綱母の少女時代を思い出すかもしれませんね。

今日はそのようなとある『祈りの人』の祈りを紹介します。異教異国の地で文字通り滅私奉公をしたクリスチャンの女性。後にノーベル平和賞を受賞し、その行動の証しは多くの人々の心を揺さぶりました。もう亡くなってしまったのですが、今その方に敬意をこめてここで掲載します。マザーテレサ氏の祈りに耳を傾けてみましょう。

『自己からの解放』

主よ、私は信じきっていました 私の心が愛にみなぎっていると。

でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく 他人の中に自分を愛していた事実に。

主よ、私が自分自身から 解放されますように。

主よ、私は思いこんでいました 私は与えるべきことは 何でも与えていたと。

でも、胸に手を当ててみて 真実が分かったのです。
私のほうこそ与えられていたのだと。

主よ、私が自分自身から 解放されますように。

主よ、私は信じきっていました 自分が貧しい者であることを。

でも、胸に手を当ててみて 本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみとの心に 私がふくれあがっていたことを。

主よ、私が自分自身から 解放されますように。

主よ、お願いいたします。

私の中で天の国と この世の国々とが まぜこぜになってしまうとき
あなたの中にのみ 真の幸福と力添えとを 見いだしますように



彼女の敬虔さは世界中から評価されていました。しかし彼女はその賛辞の言葉に身を浸す事なく、謙遜に、かつ冷静に自分自身を見つめ、戒めています。

僕はこのような態度からはクリスチャンであるか、そうではないかに関わらず、何か学べるものだと思います。彼女の死から数年、世界は未だ混沌としています。その中でもせめて僕達が自分たちに宿題を課す事はできるのではないでしょうか?なにかを責める前に自分を戒め変える一歩を踏み出す、そしてクリスチャンであるのなら知識や言葉に依らずその行いで聖書を説明できる人間になりたいと思っています。

今頑張っているすべての人に祝福を、休ませている人には心地いい休息を、悲しむ人、憎む人には愛が与えられる事を心より祈って。

2006.01.20 | Pray | トラックバック(0) | コメント(2) |

アメリカでは少し寒さがひいてきた昨今、みなさんはお元気ですか?

さて、こっちの大学では新学期も始まり、心新たにまた(適度に怠けながら)頑張ろう!とおもっているんですけどね。今学期はなかなか楽しくなりそうです。

なんか学期の最初から面白い事あったしね。新しく寮に来た学生がいるんですよ。彼は『クリスチャンの友達を作りたい』って言っててね、たまに僕の部屋に聖書を持って遊びにくるんです。はなすことも『霊に対する冒涜』や『終末』の話だったり、結構興味を引かれる話で楽しませてもらってます。

来る前も、訳あって聖書を新しく一冊購入したのですが、これがまた説明がおおくていろいろ助けになっています。索引が特に良かったです。説明が多い聖書といえばアノ訳なんですけどね(笑)

あと、今学期は後輩が聖書のクラスをとっているので(クリスチャンカレッジだ!!)聖書の手引きもしているのですが、なんと言っても覆う範囲が広大なので(聖書)一日4〜5章づつぐらいの速度で進めて説明しています。これは鍛えられますよ!(笑)

なんかクリスチャン的な『縁』といえばおかしいのでしょうが、『つながり』が最初から多いこの学期、これも導きだと思い、楽しみ、成長できたらいいなとおもっています。

それでは皆さんに今日も祝福がある事を心から祈って。

2006.01.14 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |

日本では観測記録を塗り替える寒さが心身共に冷える昨今、みなさんお元気ですか?

前回ここに更新してから一ヶ月空白にしていましたね〜ホントすみません(汗)いや、いろいろあったんですよ。試験だったり車に轢かれたりチンピラにからまれて殴られたり散々な冬を過ごしていた訳なのですが・・・え、それは更新延滞のいい訳にならないって?まぁその辺はご愛嬌ということで(笑)

まぁということで年末年始何の挨拶もなく過ごしてしまった訳なのですが、あらためてここで一言。

今年もよろしくお願いします

まだ答えていないクエッションもあるのですが時を見て折々に答えていきたいと思っています。

僕の今年の抱負は多々あるのですが、クリスチャンとしては『宗派にとらわれず聖書を聖書から説明できるようになる』というのがやはり一番ですね。あとこれは自分の中での戒めなのですが『わかりづらい事を簡単な言葉で説明できるようになる』というのも目標です。

他にもいろいろ目標はあるんですよ、いっぱいね。でもどれだけ達成できるかはわかりませんが少しの一歩を確実に歩んでいければ、と願っています。

それでは皆さんに祝福に満ちた一年が与えられる事を心より祈っています。

2006.01.05 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |