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まだ風当たりは寒いですが、少しづつ春の『薫り』がする昨今、皆様お元気にしていますか?

今日は以前から書きたかった事、『聖書をどうやって勉強しよう』という中味について書いてみます。もう既に自分なりの方法を持っている人は変える必要はありません。賛否はあっても方法論に『絶対』はないとおもってます。

ただ『これから聖書を読んでみようかな?』という人が参考にしてくれると光栄です。

聖書って本当にいろんな勉強方法があります。ビギナー向けの書籍やクリスチャン雑誌を使う人もいれば、注解書などを参考にして読んでいく人もいるでしょう。年配のクリスチャンに教えを乞い、深い洞察と経験に基づいた指南を受ける人もいれば、若き研究意欲に燃える牧師から直接指導を受ける人もいるでしょう。日曜学校など集会で学ぶ人もいるかもしれません。それら全てが素晴らしい勉強法だと思うし、僕も上記の学習法のうちいくつかを実践しています。でも僕にここでもう3つ程勧めさせてください。

まずは『聖書読み下し』の読み方です。

『通読』に近いのですが『創世記から黙示録』ではなく結構いろいろなところをバラバラ読んでいく事です。僕自身の目標は『旧約2~3章、福音書1~2章、書簡(○○の手紙)1~2章』を毎日のペースでやっていますが必ずしも僕の形で読む必要は無いです。最初は1章読むのも一苦労だと思うしね。

このときオススメなのはちっちゃくてもいいから『聖書事典』を横におく事です。フェデリコ=バルバロ訳や一部の学習聖書のように『注解付き聖書』なら問題は無いと思いますが、そうじゃないと説明が無いとよくわからない事があります。そういう時に事典は非常に助けになります。是非お近くの図書館から借りたり、友人のクリスチャンから借りてみてください。

ちなみにこの読み方で初めて聖書を読む人は最初に創世記の1~11章とマルコの福音書をよむことをお勧めします。すこし全体像がわかるんじゃないかな?

次に『キーワード別聖書聖書内検索』です。

どういうことかというと、まず聖書の後ろの索引を開きます。そして調べたい語句を探してみましょう。(例、『赦し』等)そうするとそれに関する聖句が書いてある場所がでてきますね。あとはそれを一つづつ引いていくだけです。この読み方のいいところは聖書の『価値観』がわかるところです。一つの意見についてどのように書いてあるか、それを聖書内の様々な箇所から見ていく事で『あぁ、聖書はこの事についてこう考えているんだ』というのがわかります。あと読んでいる時に聖書に『問いかけている』という実感を持って読めるのも利点です。索引で物足りないと思う人は是非図書館等で『コンコルダンス』というのを借りてきてください。これは聖書の索引本で巻末索引より具体的に書いているので結構知識欲を満たしてくれます(笑)

そして最後に『聖書サーフィン』です。

これは実は引照がなければできないのですが、たまに一部の聖書は欄外に参考聖句が書いてある事があります。これを引照といいます。ようは聖書内の『リンク』です。だからそこを見ると関連聖句がバーーーっとでてくるんですよ。『聖書サーフィン』はお気に入りの聖句からこの『リンク』をたどって中をいろいろグルグルまわってみよう、というものです。この読み方のいいところはたまに思わぬ発見がある事です。『あ、この聖句これと関連があったのか~~!』とちょっとした発見が楽しめます(笑)

以上がぼくのオススメの読み方です。実はこれ、色々書いたけれど昔からおこなわれているベーシックな読み方です。でも初めて聖書読む時ってそのボリュームと『聖書!!』という先入観に圧倒されてなかなか手をつけられないんですよね。おそらくここをのぞいてくれる人の中にはそういう人もいるんじゃないかな?とおもいアップしてみました。

それではみなさんの一日が楽しいものとなるよう心から祈って。
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2006.02.24 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(4) |

天気がへそまげて2月の半ばなのに雪が降る昨今、はるはまだ遠いのかな?みなさんおげんきですか?

最近友人から本をもらったんです。本のプレゼントって僕にとってはとっても嬉しいんです。もともと活字中毒ですから(笑)最近はちょっと遠のいていたけどね。3日ぐらい読書だけで過ごせる日が欲しい・・・(笑)

そしてそのもらった本のラインアップが面白いんです。まずは日本の友人から『死を求める人びと』。これはオランダの医師が直面してきたいろいろな人の死を書き記したものです。

お国柄、本の中にクリスチャンの人もよくでてくるのですが、『やはり死は怖い』というあたりまえのことを再確認させられます。僕がこういうと一部のクリスチャンは『死が怖い??なぜ??』というかな?確かに永遠の命の約束は聖書で記されていますよね。僕も本当に賢くなったり、完全な信仰があるのなら『死なぞ怖くない』といえるのかもしれません。しかし、やはり頭に銃口をつきつけられて『死を怖くない』といえるか、不治の病を経験して『恐怖が無いか』といったら無理でしょう。そこには、その前後云々は別として、確実な『リアリティ』が存在する。不可避のね。そしてそれは確実に自分と関連してくるとおもったとき、やはり怖いです。死ぬ事も、この世から断たれる事も。

あらためて『命』と向きあう機会を与えてくれた本です、すごく面白い!

他にもらった本はアメリカ人のクリスチャンおばあちゃんから、『Prayers Promises』。和訳すると『祈り人の約束たち』というんでしょうか?『希望』『家族』『勇気』などいろいろなチャプターに細かく別れていて、さらにそのトピック一つ一つに聖句が引用されており、加えてトピック一つづつに祈りが記されているんです。『落ち込んだり、苦しい時に読むといいよ』といってくれた本なのですが、いや~普通に呼んでも充分ためになる、結構楽しんで読んでます。

んでもって実家からの荷物に何故かはいっていたスティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー』。これはまだ開いていないので何とも言えませんが、元々小説大好きなので(それで怒られた事も多々ありましたがー高校時代授業中本をこっそり読んでいたetcー)嬉しいです。

ちなみにアウトドアも大好きです。この年齢なのに広場でサッカーやったりするしね(笑)もともと柔道やってたので(汗)

それでも前半でも書きましたがやはり読書だけの日が数日欲しいと思う昨今、皆さんは本を読んでいますか?

それでは皆さんにいい時間が訪れている事を祈って。

2006.02.21 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |

夜はまだ冷たく冷えるけれどもその一方で星がより透明度を増して見える昨今、みなさんはおげんきにしていますか?

最近ね、少し悩んでるんですよ。

いや、別にバレンタインデーにアメリカ人とラトビア人の男からチョコもらったとか、そのチョコの名前が『kisses』だったからとかじゃないですよ(涙)それはおいといて・・・

最近いろんな事に心の変化があったんです。

以前赦せなかった事を『受け入れ』始めたり、聖書の勉強方法変えたり、学校での勉強の仕方変えたり。その結果として、恐らく僕は求めた結果になっているんだけど、時にその変化が重くてね(笑)

変化は新しい視点を得る事ができるけれども、同時に過去の一部との決別を意味すると思います。それに思い入れがあったり、特別な感情があると『変化』が非常に重たく感じられる。その決別は幸福へのステップになりうるけれども同時に未知への門出も意味すると思うのです。未知は恐怖になり得ます、それはいつもポジティブに働くものではなく時にネガティブな結果をも生み出せる事を知っているからです。そしてその恐怖が今、僕の変化に重荷を増し加えているんですよ。

『試みは喜び』とヤコブの手紙の1章前半でかいてあるけどそこまでいくにはまだまだだなぁ(笑)さぁて充分愚痴ったことだしこの後はサッパリ笑顔でいきましょうか(笑)

それでは、みなさんに素晴らしい日が訪れている事を祈って。

2006.02.17 | Days | トラックバック(0) | コメント(2) |

部屋に工事でめをさましたネズミが移住し、想いもかけないルームメイトに戸惑いが隠せない昨今、みなさんお元気ですか?

序文でもかいたのですが、部屋にネズミがやってきました。学校のみんなは『ミッキー』と呼んでます☆・・・って想いっきり招かれざる客なのですが~~~(食事が食べられた)

まぁぼくのプライベートな叫びはおいといて、今回初めてトラックバックというものをしてみます。うまくいけばいいなぁ。トラックバック先はnikkohさんの『眠られぬ夜のために』です、ヨブ記に関してとても面白いコメントがあったのと、前々から話したい事だったので『ちょうどよかった』とおもいかいてみました。

それで、今日一緒に考える事はね、資本主義と神の視点、というところです。

資本主義ってなにかわかります?なんて聞いたら『フザけてんのか!』と怒られそうですが、一応簡単に説明させてください。資本主義というのは一言でいうなら『働きに応じて報酬がもらえる』という制度です。がんばりゃ出世するし、働けば働いた分だけ報酬がもらえるというもの。まぁ裏を返せば『翼あるものは飛べ、無きものは地を這え』という考えがあるのですが、まぁ『努力に応じて』という点においては公平と言えるでしょう。

さて、それでは神様の視点とはどういうものなんでしょうか?すごく長くなりますが、時間とか気持ちに余裕があるのなら一緒に考えてみましょう。マタイ20章を始めから16節まで読んでみましょう。

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2006.02.16 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(0) |

『雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見る人もがも』、万葉の歌が心に響く昨今、皆さんお元気ですか?

さて、今日は何の日でしょう?

1876年、グラハム=ベル電話の特許取得・・・

1917年、雑誌『主婦の友』創刊・・・

『平家物語』に登場する、平清盛の寵愛を受けた白拍子・祇王の忌日・・・

ゴロ合わせで『ニ(2)ボシ(14)の日』・・・



何か忘れていますか?いや、気のせいだって、2月14日は決して敗者決定日なんかじゃないって・・・



くやしいのでカンタンな歴史だけ触れておきます(涙)。兵士の自由結婚禁止政策に反対した聖ウァレンティヌスという司教がローマ皇帝の迫害を受けて殉教した日です。

まぁ僕にとってはマーチングバンドでドラムをバンバンたたいて『レッツゴー○○College!!』と叫んだ後ペプシをスカ~~~ッと飲み干し、そのまま夜の聖書の時間にゴーです。

どうせ何も予定ないっすよ(泣)

ちなみに2/14は決して雅歌やルツ記は読みません(両方とも恋愛のストーリーが満載)。読むなら士師記でサムソンが暴れているシーン読んで『行け、お前こそ男だ!』と熱く応援するか(士師記15章)ヨナ書を読んでヨナの冒険に心をときめかせます!ちなみに甘党ですが今日に限りチョコなんて見たくもありません!

そして何よりも悲しいのが・・・

ここで想いっきりボケツ掘ってる自分自身です(涙)

それでは皆さんに(僕の代わりに)素晴らしい一日が来る事を心より祈って。

2006.02.14 | Biblical Joke | トラックバック(0) | コメント(0) |

春がその気配を出し始めたかと思うとまた寒くなる、天候は気まぐれですね。こんにちは、元気にしていますか?

皆さん、言われると悲しくなる言葉ってあります?なんかズーンと悲しくなる言葉。

僕は自分の悪口言われるのって『あっそ』って感じなんですよ(友達や家族の事はいやですが)。でもそれ以上にいやなのがこのコメントなんです。

『神様のせいで世界が戦争するんだ。神様なんかいないし、いても死んでしまえばいいんだ』

コレ、かなりショックです(笑)もちろんね、聖書開いて『それは違う』って説明できますよ。微に入り細に入りね(笑)でも結局ほとんどの場合この会話は成立しません。一つは相手が聖書を信じていないから、もう一つは彼らが最初から責めているのは聖書でも神でもなくて、その名の下に戦争をしている『クリスチャン』だからです。そして神の名で行っている以上その責任は神にあるはずだ、と言う点です。

よくよく考えたら『名の下で行っている以上その名を持つ者のせい』なんて論理はなりたたないんだけどね。でも一応確認しておきます。他人を傷つける事は許されていますか?旧約、福音書の両方から考えてみましょう。

『殺してはならない。(出エジブト記20:13<十戒(十誠)の第6項目>)』

『そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ26:52)』

十戒は旧約聖書、福音書は新約聖書のものです。その両方が殺傷行為、障害行為を禁じています。しちゃいけないはずなんです。でもね、確かに否めない事実なんですよ。聖書の教えを心に留めないで、神の名を出して戦いを行うものがいる、という事実。

結局は僕らの行いによって神の事も評価されるんだな、と思います。本当に思うのですが、聖句を100連ねるよりも、聖書の行いを一つしっかりやる方が『説明』になるんじゃないのだろうか、その方が相手が理解してくれるのではないだろうか、ってね。

『あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)』

『異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。(1ペテロ2:12)』

もちろん僕らクリスチャンだって不完全だし失敗はする、僕は毎日が失敗の連続です。でも二つの事を心に留めておきたいんです。誰であっても『愛する事』と『赦す事』、とーーーっても難しいし、できない事が多々だけどね(笑)

『しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。(ルカ6:35)』

親切にしたら親切を返してもらえる、そんな期待等持たずに行うというのは難儀です。しかも自分の『敵』に(笑)でもこれがきっと『愛する』って事なんだろうな、と思います。『求めずに与える事』、まだまだそこに達する道は長いですが(笑)

行い、赦し、愛・・・単純だけどとっても難しい僕らクリスチャンの宿題です。100点はとれないけれどできる限りの努力をしたいです。そうする事がきっと誤解を解く事にもなるし、神への賛美にもなるんだろうな、と思います。

なんかダラダラと長くなってきたのですが、何となく伝わったかな?だといいな(笑)

それでは皆さんに安堵と平穏のある一日が訪れている事を祈って。

2006.02.11 | Days | トラックバック(0) | コメント(4) |

東海岸では桜も少しづつ春を迎えそうな気配がする昨今、みなさんお元気ですか?

今日は完全に個人的な話なんですが、まぁこんなところでいうのも気が引けるのですが、最近余裕がなくてワサワサしてたんです。肉体的だけではなく精神的にもね。それで昨日ひょんな事から友達にWal Mart(おっきいスーパーです)行く?ときかれたので行ってきたんですよ。

そこでいろんなコーナー見てる時ね、ふとCDが目にはいったんですよ。思い起こしてみれば最近CDを買おうと思う余裕すらなかったなぁ~ってね。それで、自分へのプレゼントということでCD2枚買ったんですよ。オペラ座の怪人のサントラとNSYNCのアルバム

『にあわねー』とか思った君、放課後体育館裏で待ってな(笑顔)

でね、部屋に帰ってパッケージあけて聞いてみて、『いいなぁ、疲れが落ちるわ~』とおもったんですけど、よくよく考えたらこの満足感って、ある程度頑張ったからあるんだろうなぁって

『人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは 神の賜物だ(コレヘトの言葉3:13)<*コレヘトの言葉=伝道の書>』

『労苦』して頑張って満足するのっていうのも神様からのプレゼント(賜物)なんですね。こう考えたら労苦も少しはラクになるかも、と思います。まぁそれでも、休みは欲しいですけどね。

たんまりと(笑)

以上、ダラダラ日記でした(笑)

それでは、皆さんの残りの一日が祝福に満ちた者になる事を祈って。

2006.02.09 | Days | トラックバック(0) | コメント(0) |

東海岸では二月の異名、雪消月にふさわしく寒さも遠のき始めた昨今、みなさんはおげんきにしていますか?

最近友人に「おまえのブログ、みずらい」といわれたのでテンプレートをかえてみました。少しは読みやすくなったかなぁ?ホントはキレのある白や黒で統一するのもいいなぁと思ったのですが、書く中身が聖書なので暖色系がいいかなぁとおもいこれにしました。どうですか?

さて、今日は2月5日、別に祝日でもなければ友達の誕生日でもないのですが、ちょっと歴史の話をしてみましょう。

さかのぼる事、今から400年以上前の1596年の二月、26人の人間が長崎で死刑に処されました。彼らは散々道中引き回しされた末、異例の両手足打ち付けになり命を絶ちました。その中にはまだあどけなさが残る幼い子供たちも三人程いたみたいです。2月5日でした。日本初のキリスト者殉教でした。

かれらの罪科は聖書の伝道とその信仰です。しかしこの罪科はほとんど関係ないものでした。ようは秀吉公とポルトガルの間にに政治的対立が生じ、腹が立ったので福音を伝道し、信仰をもっているやつを見せしめに道中引き回しにしたのち、十字架に張り付けて殺してしまえというものです。大人の宣教者、信者21名、子供の聖徒3名、道中引き回しの間に彼らを見、信仰を持ったために死を選んだ者2名、計26名でした。

この後キリシタン禁令がでて、それが解除されたのが1853年(安政5年)、およそ250年も後になります。(しかも250年のブランクを経たのにクリスチャン信仰は生き延びていたらしいです!)その後も天皇思想の拡大などでさらにクリスチャン迫害期はつづく、というのが歴史の流れなのですが

考えてみたいのはこの迫害された人たちの意義です。彼らに限らず、ヒトラー政権下で立ち上がり、信仰のために迫害を受けた人、聖書を広げるために翻訳作業をしたために『クリスチャン』に迫害されたフスやウィクリフ、さらにさかのぼるならその教えのために命を投げ出したステファノやアンデレ等、彼ら迫害された人の意義とは何でしょうか?

これは僕みたいに神を信じ、キリストを是認する者にとっては心を熱くさせる事実です。すごいと思う、自分じゃきっとできないかもしれない、でもその誠実な姿勢に心打たれるし、とても励まされます。でももし神がいなかったら・・・そう考えるのならまったくもって茶番劇でしょう。こればっかりは答えは出せないと思うんですよね。個人の受け取り方によって解釈は変わっちゃうから。

でも覚えてほしいんですよ、クリスチャンでもアンチクリスチャンでもね。そういう風に信念で生きた人がいて、彼らをそこまで奮い立たせる何かがあって、自分の信じる事にまっすぐに生きた人たちがいるという事実をね。宗教云々なしにしてもその事実だけは是認できるのではないのでしょうか?

初の殉死からもう408年、今なお日本ではクリスチャンへの風当たりが強いですが、それでもこのように公に信仰を持てるのは彼らのおかげだと思います。彼らの功績とその信仰を育ててくれた神に感謝をし、皆さんの祝福も祈りつつ、今日の記事をおえようとおもいます。

2006.02.06 | Days | トラックバック(0) | コメント(3) |

『ひさかたの あまのかぐやま このゆうべ 霞たなびく 春立つらしも』という万葉の句に想いを馳せる立春の候、皆様はお元気にしていますか?

今日久々に遠出したんですよ。最近ギチギチだったからとても嬉しかったんですけどね、そこでなんかおもしろうもんみつけたんです。

『Book Hug for Book lovers(本の恋人たちに本の抱擁)』

まぁようは机上譜面台みたいなもんで、単に本をたてて読めるというだけの代物なんですが、これを部屋に帰って早速開いてみて大判聖書を立てかけてみたんですね。

いいなぁ、これ・・・

こんな小さなアイテムの一つで読書をする気が湧いてくるから心って面白いもんですね(笑)

さてさて、今日はちょっとした単語から『神様ってどのくらい近い人なんだろう』というのを考えてみましょう。

まず皆さん、神様ってどんなイメージあります?『すんごく神聖』とか『手の届かない相手』、『怖い存在』かもしれないし『遠すぎてわからない対象』かもしれない。

じゃあ実際聖書に神様はどのようにかかれているのか?これはいろいろな角度から聖句を引用して考える事はできるとおもうんですよ。でも今日は単語一つからの解釈って言うのをしてみようと思います。

まずは神様の言い換えの言葉を探してみます。『主』だったり『全能者』、『至高者』、『創造者』などやったら『手が届かないな~』と思わせる言葉が旧約聖書(イエスが来る前の時代)では使われています。それじゃあ、ユダヤ教時代からキリスト教時代に視点を変えてみましょう。新約聖書ではどう書かれているでしょうか?

で探してみるとやたら目につくのが『父』と『父なる神』。キリストの伝道以降、神との関係が一層密になったのがわかりますね。さて、ここからが本題。この『父』って単語を原語で考えたら本当に『父』なんでしょうか?

まず父ってヘブライ語でなんというんでしょうか?これって『アブ』っていうんです『アブラハム(訳:信仰の父)』や『モアブ(訳:父によって)』でつかわれている『アブ』です。

さてさてヘブライ語で父がアブだ!ということを頭に入れて次に進んでみましょう。それでは実際にイエスやその弟子たちは神を『アブ』と呼んでいたのでしょうか?イエスの言葉である福音書の中からマルコ14:36を、教えを広めるものであり、当時のクリスチャンの伝道リーダーでもあったパウロが記した記述、ローマ8:15、ガラテア4:6から考えてみましょう。

『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。』(マルコ14:36)

『あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。』(ローマ 8:15)

『このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。』(ガラテア 4:6)

あれれ、どうやら彼らは『アブ』ではなく『アバ』って呼んでますね?(新共同訳では『アッバ』)この『アバ』って一体何者なのでしょうか?

この『アバ』って言うのは厳密には幼児語に近いんです。つまり『父』よりもむしろ『パパ』とか『とおちゃん』って感じなんです。つまりこの単語からわかるように、僕ら人間にとって神様は『子供にとってのパパ』なんですね、こういう視点から見ても神様は『愛』と『赦し』の方である、というのがわかりますね、僕ら子供っすから(笑)

それじゃあ皆さんに祝福が満ちた一日がある事を心より祈って。

2006.02.05 | Biblical memo | トラックバック(0) | コメント(1) |

今日タンポポが道ばたに咲いていて、春の息吹を感じている昨今、みなさんはおげんきにしていますか?

今日の更新はまぁ『春が来た』ということを言いたかっただけなのですが(汗)、この間聖書の話を書いたのですこしダラッとした更新をしてみましょう。

ちょっとだけ今日思い起こした事なんだけどね

僕の聖書を読む作業ってきっかけはどちらかと言えば聖書に反対するためだったと思うんです。そのためにも若干ニーチェとかもよんだしね(笑)昔っからクリスチャンだったわけでもないし、実家はクリスマス、正月、お盆をすべてこなす典型的日本の家庭だったので、母親がミッション系卒業って事を除くと何の接点もなかったんです。その母も仏教?だしね(笑)

僕は昔から興味はあったけど特に気にしていなかった。高校はハリストス正教会の隣だったせいかタダで聖書をもらった事があったけど、あんま興味がなかったなぁ、というのが本音かな?すくなくても毎週礼拝に参加しよう、とかキリストを是認しようとかは全然おもっていなかったと思うんですよ。揺れた事はあったけどね(笑)

まぁそれから紆余曲折あって、何の因果かアメリカのバイブルベルト上に位置するクリスチャンカレッジに入学して、いろんな友人たちに刺激を受けたり、様々な出来事を通して今の僕がいるんだけど、その中で聖書を読む上で悩みがあったんです。

僕は、どちらかと言ったら感情よりも理性ってタイプだとおもうんです。(その割には読んでいる本が・・・と突っ込むのは禁止です)だから聖書も信じる上でたくさん整合性をもとめて読んでいた時期があるんですよ。聖書との追いかけっこ時代(笑)クリスチャンの友人をたくさん困らせたのもいい思い出です(おい!)

で、ずーーーーっと論理で読んでいて、聖句を覚えるので必至で、そんな時間を過ごしているうちに『なんかこれじゃいけない』と思えてきたんですよ。心が伴ってなかったんです。聖書オタクの道まっしぐらみたいでね、これじゃあコミュニケーションになっていないな、ってね。

聖句一つ一つを自分に当てはめて考える、今度はそういう作業を始めたんですよ。そうしたらね、なんというか論理と理屈で考えた時よりも聖句が近くなったんです。聖句が使徒や預言者、イエスの言葉が肉を持って僕に話しかける気がしてね。

ここで『アヤシイ奴だ』ってドン引きしないでくださいよ!

で、よくよく考えたら聖書って対話なんですよ。学問だし研究するもの、確かにそうなんだけれども、それ以上に僕ら一人一人にとってすごく『個人的』なものなんだなぁってね。ヨハネの福音書(持ってたら開いてください!)の最初でイエスが『ことば』と言い換えられていますよね。これってもしかしたら聖書の『ことば』を読むってことはイエスや神との対話なのかな、ってね。

最近になってそういう感情面での信仰がすこしづつ肉厚なものになってきている気がします。やっと僕にも春がきそうです。

それでは、皆さんがいい一日を過ごしているのを心より祈って。

2006.02.01 | Days | トラックバック(0) | コメント(3) |

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